サンタモニカ

アメリカ合衆国・カリフォルニア州・ロサンゼルス郡の西部に位置するサンタモニカ。年間平均晴天日数は325日とされているように、過ごしやすい気候から、20世紀初頭には有名なリゾート都市となっていた。1980年代後半にビジネス、観光とも飛躍的に成長を遂げた。

地名の由来は聖モニカ(Santa Monica)で、これはスペイン人が初めてこの地を訪れたとき、彼女の祝日だったことからである。

聖モニカ(Monica, 331年 - 387年)

ヒッポの司教アウグスティヌスの母で、キリスト教の聖人。カトリック教会・聖公会・ルーテル教会・正教会で崇敬されている。母子とも聖人となった彼女の記念日は8月27日であり、これは息子のアウグスティヌスの記念日8月28日の前日にあたっている。

モニカ・セレシュ

モニカ・セレシュ (1973年12月2日 - )は、ユーゴスラビア(セルビア)・ヴォイヴォディナ自治州ノヴィ・サド出身のハンガリー人(マジャル人)で、現在はアメリカ国籍の女子プロテニス選手。フロリダ州サラソタ在住。「セレス」と呼ばれることも多い。

左利きだが、フォアハンド・ストローク、バックハンド・ストロークとも両手打ちで、そこから繰り出される強烈なショットを最大の持ち味とした。WTAツアーで4大大会9勝を含むシングルス53勝、ダブルス6勝を挙げた。

1989年に15歳でプロ転向後、セレシュはすぐに世界的な活躍を始めた。4月末にアメリカ・ヒューストンの大会でクリス・エバートを決勝で 3-6, 6-1, 6-4 で破り、WTAツアー初優勝を飾る。その年初出場した全仏オープンでいきなり準決勝進出を果たし、初対戦のシュテフィ・グラフに 3-6, 6-3, 3-6 で敗れたものの善戦する。翌1990年の全仏オープンでは、決勝でシュテフィ・グラフを 7-6, 6-4 のストレートで圧倒し、「16歳6ヶ月」の当時の4大大会最年少優勝記録を樹立した。(これは現在も全仏オープン女子シングルスの大会最年少優勝記録である。4大大会女子シングルスの最年少優勝記録は、1997年全豪オープンに「16歳3ヶ月」で優勝したマルチナ・ヒンギスによって破られた。)1991年3月11日には、史上最年少の「17歳3ヶ月」で世界ランキング1位の座につき、グラフの世界1位連続保持記録を「186週」で止めた。1990年-1992年に全仏オープン3連覇、1991年-1993年に全豪オープン3連覇、1991年と1992年に全米オープン2連覇を達成するなど、1990年から1993年の4月までは彼女の絶頂期であった。

しかし1993年4月30日、セレシュはドイツ・ハンブルクの「シチズンカップ」準々決勝でブルガリアのマグダレナ・マレーバとの対戦中に、暴漢ギュンター・パルシェに背中を刺された。この事件が競技中に起きたことから、全スポーツ界に大きな衝撃が広がる。セレシュはこの後遺症により(PTSDと考えられる)、2年以上試合から遠ざかった。(暴漢はグラフの“熱狂的ファン”と自称し、「セレシュをけがさせれば、その間試合に出場できなくなるので、グラフが再び世界1位に返り咲けると思った」と犯行動機を話している。)この事件によるブランク期間中の1994年3月、モニカ・セレシュはアメリカ市民権を取得した。なお、この事件以降セレシュはドイツ国内でのプレーを拒否してきた。2001年に女子ツアー年間最終戦のWTAツアー選手権がアメリカ・ニューヨークからドイツ・ミュンヘンに開催地を移転した時も、前年の2000年から「(来年)仮に出場資格を得たとしても、欠場するだろう」と話していた。(ミュンヘン開催は2001年の1度だけだった。)

1995年8月、セレシュはようやくカナダオープンで復帰を果たす。その準決勝ではガブリエラ・サバティーニ、決勝でアマンダ・クッツァーを破り、復帰戦を優勝で飾った。翌月の全米オープンでは第2シードで出場。決勝ではライバルのシュテフィ・グラフに 6-7, 6-0, 3-6 で敗れたが、以前と変わらない大接戦で、ブランクを全く感じさせなかった。翌1996年、セレシュは全豪オープンで復帰後初の4大大会優勝を果たす。この勝利により達成した4大大会女子シングルス通算9勝は、モーリーン・コノリーと並ぶ女子歴代8位タイ記録である。

その後はけがによる不振や、マルチナ・ヒンギス、ビーナスとセリーナのウィリアムズ姉妹など若手の台頭により、4大大会の優勝から遠ざかった。その後の4大大会で、最も優勝に近かったのは1998年全仏オープンであった。大会直前の5月16日、長年彼女を支え続けてきた父親が死去したばかりであった。その悲しみを乗り越え、準決勝で第1シードのマルチナ・ヒンギスを破り、全仏オープンでは6年ぶり4度目、4大大会では1996年全米オープン以来となる決勝進出を果たした。決勝戦の対戦相手は、それまでの対戦成績が14勝2敗のアランチャ・サンチェスであり、圧倒的にセレシュ有利と言われたが、サンチェスの粘りのテニスに屈し 6-7, 6-0, 2-6 で敗れて準優勝に終わった。これが彼女の最後の4大大会決勝戦になる。これはまた、セレシュが4大大会決勝戦でグラフ以外の選手に初めて(唯一)敗れた試合でもあった。

2003年の全仏オープン1回戦でナディア・ペトロワ(ロシア)に敗退したのが、セレシュの最後の公式戦出場になる。その後は足の故障により、公式戦復帰への手がかりをつかむことができなかった。2005年12月には「私はまだ練習に励み、挑戦を続けている。でも同時に現実主義者でもある」と語り、近いうちの引退を示唆するコメントを発表した。最後の公式戦出場から5年後、セレシュは2008年2月14日(日本時間15日)に正式な現役引退を表明した。この引退発表と前後する同年1月にはウィンブルドン選手権の放映権獲得などテニス番組の拡充に力を入れるWOWOWと契約を結び「WOWOWテニスアンバサダー」の肩書きで同社公式サイトでのコラム執筆を開始。3月には来日を果たし、記者会見やテニスクリニックの開催などを行った。

2009年1月16日、モニカ・セレシュの国際テニス殿堂入りが決定した。殿堂入り式典は7月11日に行われる。

著書に『私は負けない』(1996年刊行、原題:“From Fear to Victory”、直訳では「恐れから勝利へ」の意味)がある。

モニカ・ヴィッティ

モニカ・ヴィッティ(1931年11月3日 - )は、イタリア・ローマ出身の女優。モニカ・ビッティとも表記される。本名Maria Louisa Ceciarelli。

来歴

ティーンエイジャーの頃からアマチュア劇団に参加し、ローマの演劇学校で学ぶ。その後、舞台でヨーロッパを回り、1954年にエットレ・スコーラ作品で映画デビュー。1957年、ミケランジェロ・アントニオーニの劇団に参加し、映画『さすらい』に端役で出演。以後『情事』『夜』『太陽はひとりぼっち』『赤い砂漠』とアントニオーニ監督作品の常連となり、世界的に知られるようになる。

主な出演作品

  • 情事 L'Avventura (1960年)
  • 夜 La Notte (1961年)
  • 太陽はひとりぼっち L'Eclisse (1962年)
  • スエーデンの城 Château en Suède (1963年)
  • 赤い砂漠 Il deserto rosso (1964年)
  • 唇からナイフ Modesty Blaise (1966年)
  • 花ひらく貞操帯 La Cintura di castità (1968年)
  • ジェラシー Dramma della gelosia - tutti i particolari in cronaca (1970年)
  • 自由の幻想 Le Fantôme de la liberté (1974年)